このコラムでは、私たちがイジューハウスを立ち上げた理由の3つの側面から「住宅産業の側面から豊かさ」を取り上げて、書いていきたいと思います。
ぜひ、地方での住まいをお考えの方は住まうことの豊かさとイジューハウスの意味について考えてもらえたらと思います。
「住宅産業の歴史を少し振り返る」
住宅産業を再考するに当たり、どのような流れでこの産業が生まれてきたのか見てみましょう。
今の日本の住宅産業を簡単にお伝えすると、戦後に住宅がない状況からとにかく建てろ!と言わんばかりに政策として(ここが重要!)住宅を「供給」してきた流れ・仕組みが、空き家が問題とされる現在でも用いられていることです。
この住宅における「供給」という概念は大正時代の関東大震災後の対応による応急住宅供給(同潤会)から始まりました。この震災では46万戸もの住宅不足が発生しました。政府は政策のもとに義援金と税金によって日本初の住宅供給がスタートします。明治時代までは家を建てたい人それぞれが大工に相談し、大工は家を建てて直接提供してきたわけですが、お金を政府が出して国民へ供給を担当し、家を建てるのは大工というように変わりました。住宅の「供給」がその他のプロセスから分離されるため、大量に供給できるという点がそれまでと相違します。
その約20年後、第二次世界大戦が起こります。国内の住宅不足数は420万と推計され、早期大量供給が国の大命題となりました。応急処置的に対応するための住宅供給は戦後昭和 20 年度から 23 年度までの四年間に約 200 万戸の住宅が新築されました。
そして、一定量供給されると、次は消費者のニーズを捉えながら 成長していくように政策で供給がコントロールされていくようになります。
住宅供給モデルについての大きなターニングポイントは、住宅金融公庫・公営住宅・住宅公団の立ち上げです。公私共に経済成長を目的に、「供給」の実行は民間企業が主体に移り、本格化します。ここで住宅市場という概念が生まれます。
目指す社会構成の目的は戦後復興であり、国民の総生産を増大させるような社会方針が望ましいと考えられ、「単身より世帯を構成することを推奨する」「賃貸より持ち家を推奨する」政策により新築着工戸数は年々増加していきます。
一方、この頃、建築文化としては洋風建築の考え方(LDK)が持ち込まれ、公団に採用されると、住宅材料メーカーによる建材生産の工業化がスタートします。続いて1960 年頃から、これらを規格的に組み立てることで合理的に建設するハウスメーカーが誕生します。彼らは消費者を意識した商品開発と工法・新たな販売手法の開発によってその市場を拡大させていき、住宅を「供給する」から「販売する」という新たな住宅供給概念が生まれました。
「そして、現在とこれから」
ここまで、住宅産業の歴史を記述してきましたが、ハウスメーカーや政策が悪かったということではありません。不足しているから必要なものを用意し、それを拡大してきたという成長という意味では自然なことです。
しかし、私たちの価値観や生活が多様化していることや、空き家が増加傾向にあることを踏まえると、この販売供給以外の住まいや暮らしの提供の仕方があっても良いと思います。
「住宅金融公庫と住宅供給」のタッグは経済的に豊かになった今でも一般性を持ち、結果的に私たちは「土地や建物自体(室数、間取り、広さ)」に価値を見出すことを意識し過ぎてしまっているのではないでしょうか。
室数、間取り、広さはいわば条件であり、私たち人間が豊かに暮らす絶対条件ではありません。土地・住宅を決定づける住環境は手段であり、生きる目的・住まい方が優先されると思うのです。
イジューハウスは、そのように生きる目的や住まい方の理想をお持ちの方々と会話をしながら、求めることに合わせて必要な室数や広さを提案します。
会話を大事にする。丁寧に計画をする。理想はそのままに予算と計画のバランスをとる。
人生の中で数度もない家を建てる時こそ、このことを大事にしてほしいと思います。
text &photograph : 吉松宏樹